角川文庫から出てるNHK取材班による宋三姉妹の本読了しました。
中国の現在は彼らの存在抜きにしては語れない、というか存在しえないということが、改めて確認できました。実際の人生はいかなる小説よりも面白いと常々思うのですが、その典型だと思います。チャーリー・スーンというはぐれ中国人が経験したアメリカ体験がその後の中国の運命を決めたわけで、彼の娘が孫文や蒋介石などその後の中国の運命を決した人々と不可分に巡り合わされていくことも含めて本当に歴史って面白い。
ライフログに最初に入れた村松伸著「中華中毒」は、2006年に私に訪れた中華ブームの中で何気に書店で手にとって読むことになったのだが、この本ほど「そうそう」と心の中で相槌をうちながら、気の合う友達と話しているように読んだ本は久しくなかった。
香港の九龍城にはじまり、北京の紫禁城や円明園、ベトナムの古都フエ、ソウル、琉球から果ては吉宗時代の江戸城まで、時間と空間を軽々と超え、建築学の見地から「中華」というものの本質とそれが東アジアに残した様々な影響を解き明かしていく。縦軸に儒教、横軸に風水を置いて、その交差とバランスの中で中国的な建築や都市計画が語られる。実に知的な刺激に満ちた一冊なのだ。村松さんは建築学のオーソリティながら、そこに止まることなく、歴史や風水さらにはゴジラまで持ち出して、その博識によってユニークで刺激的なものにしてくれている。
私が特に共感したのは、ベトナムの古都フエの紫禁城とソウルの景福宮について書かれたところであった。
「ベトナムの紫禁城には荘厳さよりも、この国家の置かれた歴史環境や地理的位置に発する切ない苦悩と健気さが匂いたち、見る者の心を打つのである。同時に、中国文明の版図の広大さと周辺種族を呑み込んでしまう圧倒的な強靭性を感じずにおれない。」
「フエ紫禁城に漂っていた寂寥の念は、同じくソウル景福宮にも存在している。地上の生きとし生ける万物の、すべてを支配する強靭なる権力を、北京紫禁城では一瞬にして看取することができる。だが、北京紫禁城を知悉する者にとって、フエでもソウルでも、その宮殿に入った時、貧弱さへの哀愁を心から払拭することは難しい。地方政権の矮小な権力の姿を想像し、微苦笑を押し殺すのは並大抵でない。」
私は残念ながら、ベトナムのフエも北京も知らない。しかし、ソウル景福宮の勤政殿の前庭に足を踏み入れた時、その大きさに単純に感心した次に押し寄せていた感慨は、まさにここに村松氏が書いたものと同種ものだった。もちろん「微苦笑を押し殺すのは並大抵でない」というのは大げさかと思うし、私自身はこういう寂寥・貧弱・矮小感の方が好物だったりするので、むしろワクワクする。村松氏もこうは書きつつも基本そういう感覚も大いにお持ちのようだ。この後、沖縄の首里城については別の角度から取り上げつつ、やはりソウルと同じ部分を持っていることも看破されている。
思い起こせば私のアジア熱も、10年程前の沖縄初探訪からスタートしており、03年にソウル景福宮で「あの感慨」を抱いてから、より本格化したような気がする。中国の周辺でいかに中華熱が消化され、変容しているのか、それを意識的にも無意識的にも味わい続けているのだ。中国周辺国家の匂いたつ「苦悩と健気さ」と同時にそれを装うしたたかさも感じるのが好きなので、北京にはまだしばらく行かない気がする。まずはフエを訪れてみたい。
日本の県庁所在地やそれに準ずる規模の大きな都市の多くが成立したのは、いつだろうか。普段は考えもしないし、どの都市に住む誰もがずっと昔からあるような気分でいるのだが、京都のような1000年以上前から続く都をのぞけば、どこも意外と新しい。もちろん例外もあるが、豊臣秀吉の桃山時代、1600年前後というのが正解。いわゆる城下町というものが形成された時代だ。
豊臣秀吉という政治家は、一代にして現在にまで至る日本の都市分布の基礎を築き上げたわけで、その業績は敬服するに値する。徳川家康はそのスキームをまるまる引き継いだに過ぎない。(継続するのも大変だけど。)秀吉は、自分の本拠地・大阪の雛形を、配下の部将によって各地の要所に築かせたのだ。山城と麓の屋敷という戦国時代の構造を脱して、平山城や平城を中心あるいは奥とした城下町という都市の形成を目指したのだ。
東北の要として蒲生氏郷が会津若松、関東は小田原の北条攻めの後に徳川家康が江戸(東京)、信州には石川数正が松本、北陸では前田利家が金沢や富山、中国地方は福島正則が広島、四国では蜂須賀が徳島、九州は加藤清正が熊本で小早川が福岡。かたや、中世から地元に密着する形で勢力を伸ばし、秀吉の軍門に下った戦国大名の勢力も、この頃から江戸初期にかけて城下町を整備し始める。
伊達政宗が仙台、宇喜多の岡山、島津の鹿児島などがそうだ。高度経済成長期なみの建設ラッシュが全国規模で実施されたのだ。
故に、都市の名前もこの時代に名づけられたものが多い。こういう都市命名を始めたのは織田信長で、稲葉山城を陥落させ美濃を手に入れた時に、稲葉山城下を「岐阜」と命名したところあたりからだ。この名前にも信長の外国かぶれというか中国趣味が出ており、その後の秀吉とその部将たちの命名とは一線を画している。信長の命名したものは「安土」にしてもそうで、国家造りの意図とかスピリットが都市名に篭められているような気がする。
話がそれたが、とにかく日本の諸都市は秀吉とその部将が基礎を築き、徳川政権が引き継いで幕藩体制によって発展・維持してきたものがそのほとんどなのだ。
もちろん例外はあるし、その例外について考えるのがまた面白い。たとえば長崎がそうだ。昨年初めて訪れて
楽園図鑑にも書いたが、日本の都市の中でももっとも特殊な成立をした都市だと思う。ポルトガルとイエズス会が日本にやって来たことによって、この都市は誕生することになったのだ。歴史にもしもは成立しないが、彼らが日本に来ていなかったら、未だに長崎の海岸によく見られる一漁村ぐらいだったかもしれない。ところが、ポルトガルとイエズス会が安定した寄港地を求め、地元のキリシタン大名の大村純忠がその要請に応えて、静かな入江=長崎をイエズス会に寄進したために、長崎は都市化する運命を担ったのだ。10年ほど外国の教会領だったところは、日本でもここだけだ。九州征伐でこの現実を知った豊臣秀吉は、激怒してキリスト教を禁教にして、教会領は没収、長崎を直轄地とする。しかし、禁教はしても貿易は続けようとするのが秀吉の商売上手なところで、それ故にその後も長崎は貿易都市として発展していくことになる。もちろん、江戸時代となって出島の建設やポルトガル人の全面追放、オランダと中国だけの貿易に制限、とどんどん条件は厳しくなっていくのだが、鎖国化で唯一外国へ開いた都市、城もなく武士も幕府から派遣されてきた奉行と少数の官僚だけしかいない都市として例外的な発展の仕方を続けてきたのだった。
幕末に現在の高島平で並み居る幕臣たちに砲術の大演習を披露して、その地名に名前を残した、西洋式砲術家=高島秋帆は、武士階級ではなく長崎の町人階級の役人であった。長崎の崇福寺の近くにある高島の屋敷跡は、城砦のような石垣がそびえ、弾薬を保管したという頑丈な倉庫や演習場も残り、普通の町人階級の屋敷とは趣を異にしている。こうした特別な人物が登場したのも、長崎という特殊な発展を遂げた都市ならではだ。
横浜や神戸のように幕末の開港をきっかけに急速に都市化したところもあれば、博多と福岡のように、古代からの港湾商業都市と城下町が隣り合わせて拮抗しながら発展した都市もある。
楽園図鑑を1年以上続けるうちに、どうしてもいくつか気になっていることを置き去りにしているのに気が付いた。自分が感じたり考えたりしたことを、そのままにして、忘却の彼方に次々と消えていくのももったいないので、楽園図鑑という括りを離れて、またブログを作ってみることにした。
都市が好きだ。今も
マカオにこだわって書き続けているが、マカオが楽園にあたるのかどうか世間一般の尺度から斟酌すると、どうなのだろうか?マカオみたいな猥雑な成り立ち方をした都市自体が普通の楽園の定義からは外れているかもしれないとも思う。それでも興味のおもむくままに、マカオを追い続けてしまうのは、都市が好きだからなんだろう。
遊びに行っても、出張しても、初めての都市のことは歴史的にも空間的にも徹底して調べ上げて、自分なりの都市観をもちたくなる。本を読み、暇をみて歩き、タクシーの運転手に何気に話を聞き、次第に自分なりの都市像を醸成させる。そして、その過程で新しい刺激を受け、新しい発見をし、自分の中の都市像が文字通り時空を超越して構成され、そこに住む人たちには敵わないが、傲慢にもできるだけその感覚に近付こうとする自分がいる。そこまでするからこそ、観光して楽しいし、そこまでするからこそ、その土地の人たちとのビジネスもスムースに進む。でも、そんなことはさておき、都市というものを探求して、単純に好奇心を満たしたいだけなのかもしれない。
そんな風に都市を探求して、自分なりの都市像を構築してみることが好きだ。ここではそんな自分の欲求により忠実に日々の雑感を綴ってみたいと思っている。