日本の県庁所在地やそれに準ずる規模の大きな都市の多くが成立したのは、いつだろうか。普段は考えもしないし、どの都市に住む誰もがずっと昔からあるような気分でいるのだが、京都のような1000年以上前から続く都をのぞけば、どこも意外と新しい。もちろん例外もあるが、豊臣秀吉の桃山時代、1600年前後というのが正解。いわゆる城下町というものが形成された時代だ。
豊臣秀吉という政治家は、一代にして現在にまで至る日本の都市分布の基礎を築き上げたわけで、その業績は敬服するに値する。徳川家康はそのスキームをまるまる引き継いだに過ぎない。(継続するのも大変だけど。)秀吉は、自分の本拠地・大阪の雛形を、配下の部将によって各地の要所に築かせたのだ。山城と麓の屋敷という戦国時代の構造を脱して、平山城や平城を中心あるいは奥とした城下町という都市の形成を目指したのだ。
東北の要として蒲生氏郷が会津若松、関東は小田原の北条攻めの後に徳川家康が江戸(東京)、信州には石川数正が松本、北陸では前田利家が金沢や富山、中国地方は福島正則が広島、四国では蜂須賀が徳島、九州は加藤清正が熊本で小早川が福岡。かたや、中世から地元に密着する形で勢力を伸ばし、秀吉の軍門に下った戦国大名の勢力も、この頃から江戸初期にかけて城下町を整備し始める。
伊達政宗が仙台、宇喜多の岡山、島津の鹿児島などがそうだ。高度経済成長期なみの建設ラッシュが全国規模で実施されたのだ。
故に、都市の名前もこの時代に名づけられたものが多い。こういう都市命名を始めたのは織田信長で、稲葉山城を陥落させ美濃を手に入れた時に、稲葉山城下を「岐阜」と命名したところあたりからだ。この名前にも信長の外国かぶれというか中国趣味が出ており、その後の秀吉とその部将たちの命名とは一線を画している。信長の命名したものは「安土」にしてもそうで、国家造りの意図とかスピリットが都市名に篭められているような気がする。
話がそれたが、とにかく日本の諸都市は秀吉とその部将が基礎を築き、徳川政権が引き継いで幕藩体制によって発展・維持してきたものがそのほとんどなのだ。
もちろん例外はあるし、その例外について考えるのがまた面白い。たとえば長崎がそうだ。昨年初めて訪れて
楽園図鑑にも書いたが、日本の都市の中でももっとも特殊な成立をした都市だと思う。ポルトガルとイエズス会が日本にやって来たことによって、この都市は誕生することになったのだ。歴史にもしもは成立しないが、彼らが日本に来ていなかったら、未だに長崎の海岸によく見られる一漁村ぐらいだったかもしれない。ところが、ポルトガルとイエズス会が安定した寄港地を求め、地元のキリシタン大名の大村純忠がその要請に応えて、静かな入江=長崎をイエズス会に寄進したために、長崎は都市化する運命を担ったのだ。10年ほど外国の教会領だったところは、日本でもここだけだ。九州征伐でこの現実を知った豊臣秀吉は、激怒してキリスト教を禁教にして、教会領は没収、長崎を直轄地とする。しかし、禁教はしても貿易は続けようとするのが秀吉の商売上手なところで、それ故にその後も長崎は貿易都市として発展していくことになる。もちろん、江戸時代となって出島の建設やポルトガル人の全面追放、オランダと中国だけの貿易に制限、とどんどん条件は厳しくなっていくのだが、鎖国化で唯一外国へ開いた都市、城もなく武士も幕府から派遣されてきた奉行と少数の官僚だけしかいない都市として例外的な発展の仕方を続けてきたのだった。
幕末に現在の高島平で並み居る幕臣たちに砲術の大演習を披露して、その地名に名前を残した、西洋式砲術家=高島秋帆は、武士階級ではなく長崎の町人階級の役人であった。長崎の崇福寺の近くにある高島の屋敷跡は、城砦のような石垣がそびえ、弾薬を保管したという頑丈な倉庫や演習場も残り、普通の町人階級の屋敷とは趣を異にしている。こうした特別な人物が登場したのも、長崎という特殊な発展を遂げた都市ならではだ。
横浜や神戸のように幕末の開港をきっかけに急速に都市化したところもあれば、博多と福岡のように、古代からの港湾商業都市と城下町が隣り合わせて拮抗しながら発展した都市もある。